はじめに
18世紀の英国では、1711年のナズミスの特許以来、特許申請時に明細書を提出することが定着してきました。
ここで、明細書における「発明の詳細」とは、どの程度まで記載すればよいのでしょうか。
今回は、この「発明の詳細」について基準が示された、1778年のリアード対ジョンソン事件について見ていきます。
背景
18世紀に入ると、特許制度はそれまでの「王の裁量」から「法の支配下」へと移り、専売条例(1624年)に従い、「真に新規の発明」に特許を与える制度として運用されてきました。
この時期、特許付与の際に明細書を提出する慣行が定着し、その内容の十分性が裁判で争われるようになりました。
一方、発明の技術についても、徒弟制度において職人が弟子に伝授するという形式から、書物や科学的知識を伴う共有化へと変化していきました。
こうした中で18世紀半ば頃から産業革命の時代に入ると、技術革新が急速に進み、新しい発明も次々と生み出されました。その結果、特許申請数も飛躍的に増加しました。特許申請数が増加するにつれ、裁判所での侵害訴訟も多くなりました。侵害訴訟の中で、明細書において「発明の内容をどこまで詳細に記載すべきか」ということが問題となってきました。
1778年のリアード対ジョンソン事件では、明細書の記載の条件として、事件を担当したマンスフィールド卿が今後の特許制度の基礎となる重大な判断を示しました。
今回は、このリアード対ジョンソン事件を見ていきます。
リアード対ジョンソン事件 (Liardet v. Johnson, 1778年)
紛争の構成
原告:ジョン・リアード
被告:ジョンソン
裁判官:マンスフィールド卿(王座裁判所の主席判事)他
紛争の内容
原告のリアードが、自身の発明である「漆喰(スタッコ)」の特許を侵害するとして、ジョンソンを被告として訴えました。
訴えに対し、被告のジョンソンは、「リアードの明細書の記載が不十分である。このため、リアードの特許は無効である」「リアードの明細書を読んでも同じ漆喰を作ることができない」と反論しました。
問題点
当時の特許制度では、「発明の詳細な説明」である明細書の提出が求められていたものの、どこまで「詳細に」説明するかの基準があいまいでした。
マンスフィールド卿の見解
上記の問題点に対し、裁判官の一人であるマンスフィールド卿は、次のような見解を示しました。
特許とは「発明者が社会に技術を教えること」と引き換えに、「国が独占権を与える」という一種の契約・代償であるという考え方です。
もし明細書の記載が不十分で、特許期間が終わった後に誰もその技術を使うことができないならば、発明者は「社会への教示」という義務を果たしていないことになります。
マンスフィールド卿の結論
マンスフィールド卿は、「その分野の技術者が、追加の実験をすることなく再現できるほど詳細に」書かれていない特許は無効であると判断しました。この結果、リアードは「説明不足」を理由に敗訴し、特許も無効であると判断されたと伝えられています。
結び
リアード対ジョンソン事件によって、明細書は「その分野の熟練した技術者が再現できる」程度に詳細に記載する必要があることが求められました。すなわち、「開示すればよい」のではなく、「再現できる程度に開示しなければならない」ことが求められました。なぜなら、再現できない技術は、公衆に帰属することができず、社会的知識とはなり得ないからです。
これは、特許制度が単なる権利付与ではなく、「知識を社会に蓄積させる制度」であることを明確にした判断でした。
この判断は、特許制度が「新規技術の公開の引き換えとして独占排他権を付与する」という社会契約であるという考えに基づいておりました。
これにより、英国の特許制度はかつての「国王の恩恵」から「発明者と公衆との間の契約」という性質へと理論的に整理されていきました。この考えは、その後の米国を含む世界中の特許制度に多大な影響を与えました。
現代日本の特許制度も、「発明の公開の代償として独占排他権を付与する」制度であり、特許法第36条4項1号で「明細書の記載は、当業者が実施できる程度に明確かつ十分に記載したものでなければならない」旨が規定されています。
リアード対ジョンソン事件での見解は、現在の特許法においても重要な意義を有しているということなのです。
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