はじめに
1688年の名誉革命後、特許制度は王権における「王の恩恵」から、法の支配下での「社会契約」という性格をもってきていました。特許の申請も増加し、裁判所で特許の侵害にかかわる争いも増加してきました。
しかし、特許を無効にするかどうかといった特許の有効性の判断については、依然として英国国王の諮問機関である枢密院が行っていました。
今回は、特許の有効性の判断をする権限が、王室(枢密院)から裁判所へと移るきっかけとなったジェームズ事件(1752年)について見ていきます。近代特許法の転換点となった重要な訴訟の一つです。
なお、日本はこの頃、江戸時代で9代将軍家重の治世の下、田沼意次が登場する直前の時期に相当します。
背景
18世紀の英国では、法の支配の下、専売条例(1624年)に沿って運用されてきました。その後、特許の申請が増加するとともに、裁判所における侵害訴訟も増加してきました。この際、発明の詳細がわからず、特許の権利範囲が不明瞭であるという問題がありました。
そこで、1711年、当時の法務総裁エドワード・ノートンは、薬剤師ナズミスの特許状に明細書を提出しなければ特許は無効であると書き加えました。その後、明細書の提出を求めることが慣例化され、1730年代以降は明細書の提出が必須となりました。
18世紀半ばになると、特許は「王の裁量」ではなく、「公共の利益に資するかどうか」という法的基準で評価されるべき段階に達していました。
しかしながら、特許の有効性の判断については、依然として国王の諮問機関である枢密院が行っていました。すなわち、特許を無効にするか否かの判断は、まだ王室が行っていたこととなります。そんな中、ジェームズ博士(Dr. Robert James)の発明した「熱病の粉(James’s Fever Powder)」の特許について、以下に述べる事件が発生しました。
ジェームズ事件
1746年、ジェームズ博士は、自身が発明した「熱病の粉」という薬の特許を取得しました。この薬は熱病・痛風など、あらゆる病に効くと宣伝され、後に国王ジョージ3世も使用したと言われるほどでした。
しかし、ジェームズ博士は独占を維持するため、明細書に、わざと不完全な製法や虚偽の成分を記載していました。
1752年、ジェームズ博士の成功に目を付けた同業他者が、同様の薬の製造販売を開始しました。これを受けて、ジェームズ博士はその同業他社に対して特許を侵害するとして裁判所に訴えました。
裁判において、訴えられた側は、「明細書に書かれた通りに作っても同じ薬が出来ない。すなわち、技術が正しく公開されていない。従って、ジェームズの特許は無効である」と主張しました。
裁判所の判断
以上に対し、裁判所は下記の判断を下しました。
「契約」としての特許
特許とは「発明者が技術を国民に完全に公開する代わりに、一定期間の排他的権利を認める」という、国家と発明者との間の法的契約であると位置付けました。
無効の宣告
ジェームズ博士が意図的に製法を隠し、他人が再現できないようにしたことは、上記の契約違反に当たるとされました。その結果、「正しく開示されていない特許は無効である」という原則が示されました。
ここで初めて、特許の有効性は、王ではなく法廷において判断されるものとなったのでした。
ジェームズ事件の歴史的な意義
ジェームズ事件を機に、特許制度は「王から与えられる特権」から「技術公開を条件とする法的な権利」へと明確に姿を変えました。すなわち、「技術を公開する者のみが守られる」という原理が確立しました。
つまり、特許は「王が認めたから有効」なのではなく、「発明としての条件を満たしているから有効」と考えられる方向へ、制度が大きく動き始めたのです。
この流れは、やがて特許を行政・裁判・議会によって運用される近代的な制度へと近づけていきます。
現在、世界中の特許制度で「実施可能要件」が厳格に定められているのは、この時期に確立された司法の論理を源流としています。
結び
ジェームズ事件によって、特許の有効性も裁判所で判断されることにより、特許制度が「王の恩恵」から「社会契約」へと実質的に転換しました。
これにより、特許制度の信頼性も向上し、後の産業革命の基盤が出来上がっていくこととなります。
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