はじめに
前回は、1712年頃に発明されたとされるトマス・ニューコメンによる蒸気機関の発明を取り上げました。これにより、炭坑の排水問題を解決することが出来ました。
しかし、ニューコメンの蒸気機関は燃料効率が非常に悪いという欠点がありました。これを大幅に改善し、蒸気機関を産業革命の中心的な動力へと発展させたのが、ジェームズ・ワット(James Watt:1736-1819)でした。ワットは、もちろん特許制度とも大きな関係があります。彼は特許制度をたくみに利用して自らの技術を守りました。それが後の特許制度のあり方に影響を及ぼすことになります。
そんなワットが蒸気機関を改良するまでにも、多くの苦難がありました。
今回は、ワットが蒸気機関の改良に成功するまでの苦労について取り上げていきます。
ワットの生い立ち
工学への興味と1年での技術の習得
1736年1月19日、ワットはスコットランドのグリノックで生まれました。ワットは幼少期、造船業を営む父親の仕事場で道具の使い方を学び、数学や工学への関心を深めていきました。
ワットは18歳でロンドンに出て、計器製作の修行をしました。通常7年の修行で習得する技術を、わずか1年で習得するほど、手先が器用で習得が早かったようです。
ギルドとの衝突
ワットはその後、ロンドンからスコットランドのグラスコーに戻り、計器製作の店を開こうとしました。しかし、地元のギルド「ハンマーマン・ギルド(金工職人組合)」が、「ワットの修業期間が短く、正式な徒弟制度を経ていない」こと等を理由として開業を妨害しました。
※ ギルドについては、こちらの記事も参考にしていただければ幸いです。
グラスコー大学からの誘い
1756年、ワットが20歳の時、グラスコー大学は天体観測器の修理ができる技術者としてワットを登用することとしました。大学は、ワットが「ロンドンで、わずか1年で技術を習得できる程の天才である」という評判を聞きつけていたのでした。
ワットは見事に天体観測器の修理を成し遂げ、科学者のジョセフ・ブラックらの教授陣に才能を認められました。その結果、ワットは「大学専属の職人」としての地位を得ることになります。大学内はギルドの権限が及ばない特権区域だったため、ワットはギルドの干渉を受けることなく研究と仕事を続けることが出来ました。
潜熱理論との出会い ― 蒸気機関改良へのひらめきと実用化の苦難
ブラック教授は「潜熱(せんねつ:水が水蒸気になる時に大量の熱を蓄える性質)」の理論を発見したばかりでした。この潜熱の理論が「シリンダーを冷やさずに蒸気を凝縮できないか」というワットの発想につながり、蒸気機関改良のアイデアへと発展しました。
ブラック教授はワットに鉄工所経営者のジョン・ローバックを紹介します。ワットの最初のビジネスパートナーです。
1765年頃、ワットが29歳くらいの頃、ワットは蒸気機関の改良案である「独立復水器」のアイデアを思いつきましたが、資金も設備もなく実用化が厳しい状況でした。ここで、ローバックが特許費用等を援助してサポートしました。
しかし、ワットのアイデアで蒸気機関を製造しようとしても、当時の技術ではシリンダーの加工精度等の問題で困難を極めました。また、ローバック自身も1773年に炭鉱経営が水害で失敗して破産してしまいます。
この時期は、ワットにとって、発明が形にならない、最も苦しい時期でした。
ボールトンとの出会い
1760年代後半、ワットは2人目のビジネスパートナーとなるマシュー・ボールトンと出会います。
ワットは、ロンドンに特許申請に向かう途中、バーミンガムにあるボールトンの工場「ソーホー製作所」を訪れました。ボールトンは、金属工芸品の世界的なメーカーとして成功していました。
内向的で心配性な技術者であったワットとは対照的に、ボールトンは社交的で野心的な経営者でした。ボールトンはワットの蒸気機関の試作機を見て、その素晴らしさを直感しました。そこで、2人はお互いの夢を語り合い、意気投合しました。
ボールトン・アンド・ワット社
1775年、ワットが39歳の頃、ワットとボールトンは正式にパートナーシップを組みました。ボールトンは資金面だけでなく、最先端技術を持つ鉄工業者「アイアン・ウィルキンソン」を紹介して、悩みの種だったシリンダーの加工精度の問題を解決することが出来ました。
こうして、ワットは蒸気機関の改良に成功することが出来ました。
ワットは優れた技術者でしたが、慎重で心配性な性格でもあり、発明を事業として成功させるには、ボールトンの存在が不可欠でした。
アダム・スミスとの関係
ワットを専属職人として登用したグラスコー大学には、「国富論」「見えざる手」などの自由経済論で知られるアダム・スミスが教授を務めていました。ワットとスミスは、ブラック教授とともに大学内で頻繁に議論を交わしていました。
奇しくも、1776年にワットとスミスは、それぞれ大きな転換点を迎えました。ワットが最初の商業用蒸気機関を完成させ、スミスは同じ年に「国富論」を出版しています。この年はアメリカが独立を成し遂げていた年でもあります。
スミスは、自由経済論の立場から独占には否定的でしたが、特許制度については肯定的でした。特許権は発明者に対する正当なインセンティブになると考えていたからでした。スミスは、新しい発明には多大な時間と費用がかかるため、特許によって独占利益を保証しないと、誰もリスクを冒して研究・開発を行わないと考えました。こうした考え方には、ワットの仕事ぶりを間近で見ていたことも影響していたと考えられています。
結び
蒸気機関を劇的に改良し、歴史にも物理量の単位にも名前が残るジェームズ・ワットでしたが、その成功までにはギルド・資金・加工技術といった多くの困難がありました。
しかし、ワットは天才的な技術がグラスコー大学に評価され、それが潜熱技術やボールトンとの出会いにつながっていくのでした。
次回は、ワットが蒸気機関を具体的にどう改良したのかを見ていきます。
関連記事
「第16回 産業革命の発明者の苦難(その2) ― 発明したのに特許が取れない」
「第15回 産業革命の発明者の苦難(その1) ― ジョン・ケイと飛び杼の悲劇」
知財の歴史ブログを公開しています
ベネチアでの特許制度の誕生からこれまでの知財の歴史について、こちらで公開しています。
知財に興味を持った方へ
La Bussola IP Office では、知財の勉強方法、資格取得、キャリアについてのご相談も受け付けています。
知的財産をこれから学んでみたい方、弁理士試験などの資格取得を考えている方、知財を仕事やキャリアに活かしたい方は、お気軽にご相談ください。

