はじめに
17世紀の英国では、1624年の専売条例制定後もなお続いた「王の専制」から、「法の支配」へと大きく転換する時代でした。その中で、特許制度も大きな変化を迎えることとなります。
日本では、江戸時代の2代将軍秀忠の時代から5代将軍綱吉の時代にあたり、まだ幕藩体制が安定していく過程にありました。
今回は、このような英国の転換の中で、特許制度がどのように変化したのかを見ていきましょう。
背景
専売条例制定後も国王チャールズ1世の専制政治は続き、特許の濫発も続きました。やがて市民の不満が爆発して、1642年に清教徒革命が勃発しました。国王チャールズ1世は処刑され、クロムウェルによる共和政が実現しました。
しかし、それはクロムウェルによる独裁政治へと変化しました。1658年にクロムウェルが死去し、1660年に王政復古が実現しました。
その結果、国王チャールズ2世とその子ジェームズ2世の専制政治が復活しました。しかし、1688年、国王ジェームズ2世の娘メアリ2世とその夫でオランダ総督のウィリアム3世が即位して政権交代が実現しました。名誉革命です。
名誉革命により、国王メアリ2世とウィリアム3世は議会が起草した「権利宣言」を承認し、これが「権利の章典」として法制化されました。国王の権限は議会によって制限され、国王は議会の同意なしに法を停止したり課税したりできない立憲君主制が確立されました。
この結果、特許についても、これまでの王の恩寵ではなく、1624年の専売条例に厳格に従って運用されるべきという認識が定着しました。
名誉革命後の特許制度の運用
王権が制限されることは、特許もまた国王の自由な裁量ではなく、法に拘束されることを意味しました。すなわち、議会主導の政治体制となり、特許制度も王室の資金集めの手段から、国家の産業発達と技術革新の意義を持つようになりました。まさに、15世紀のヘンリー6世が特許を与えた際の本来の趣旨に回帰したと言えます。このことから、以下に従って、特許制度が運用されるようになりました。
新規性の重視
真に新しい発明に対してのみ、一定期間 (14年) の保護を認めるという原則が、制度の建前として確立していきました。
透明性の向上
特許の付与が、法的な手続きに従って行われるようになりました。
立憲君主制の特許制度への影響
名誉革命は、1690年のジョン・ロックの「統治二論」によって理論的に正当化されました。
ロックの思想は、「人は自己の労働を混合した物について財産権を持つ」と述べ、自然権・私有財産を肯定していました。
このことから、「発明とは、自然物に人間の労働 (知的労働) を混合する行為であり、その成果は発明者の財産である」と考えられるようになりました。
つまり、特許は単なる「国からの許可」ではなく、発明者が生み出した成果を一定期間保護する制度として、少しずつ理解されるようになっていきました。
もっとも、ロックの財産権論も無制限の独占を正当化するものではなく、社会全体の利益との調和が前提とされていました。
結び
王の恩寵として始まった特許は、法に基づく制度となり、やがて発明者の財産権として理解されるようになりました。ここにおいて、特許制度は「権力の道具」から「市民の権利」へと大きく転換したのです。
このことから、特許制度は、今後の産業革命を支える制度的基盤となっていきました。
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