はじめに
2026年6月18日木曜日の日本経済新聞の朝刊第5面に、「特許審査 遅らせる運用」という記事がありました。特許庁は、標準化を目指す技術に関する特許出願について、標準開発の進捗に合わせて審査の着手時期を調整できる「標準戦略対応審査」の試行を開始します。
これまで、特許審査については、審査期間を短縮する方向の制度が目立っていました。なるべく早く特許権を取得し、事業展開や侵害対応に活用できるようにするためです。
ところが、今回の制度は、出願人の希望により、審査請求から最大24か月後のタイミングで審査を行うことを可能にするものです。いわば、あえて審査を急がず、国際標準の議論に合わせて権利化のタイミングを調整しようとする制度です。
これは、従来の「早く権利化する」という発想とは少し異なる、非常に興味深い制度といえます。今回は、この制度の背景について見ていきます。
特許の審査期間と出願内容の修正 (補正)
2026年現在の日本では、特許庁に特許を出願してから3年以内に審査を請求します(特許法48条の3)。審査請求がされると、通常は一定期間の後に審査官による審査が行われます。また、早期の権利化を希望する場合には、早期審査やスーパー早期審査といった制度も設けられています。
特許出願については、出願後に出願内容を修正することができます。これを「補正」といいます。補正については、主に特許法17条や17条の2に規定されています。
もっとも、補正は何でも自由にできるわけではありません。出願時の明細書等に記載されていない新しい内容を追加することはできず、最初の拒絶理由通知などがされた後は、補正できる時期や範囲にも制約が生じます。
国際標準の審議と特許出願を並行して進める場合、標準化の議論が進む中で、「どの部分を権利範囲として押さえるべきか」が変わってくることがあります。そのような場合、審査が早く進みすぎると、標準化の内容に合わせた請求項の調整が難しくなることがあります。
今回の「標準戦略対応審査」は、出願人の希望するタイミング、具体的には審査請求から最大24か月後に審査を行うことを可能にする制度です。これにより、標準化の進捗を見ながら、出願時の記載の範囲内で請求項を調整する余地を確保しやすくなると考えられます。
国際標準とは
国際標準とは、製品・サービスの品質、安全性、試験方法等に関して世界中で同じ水準のものを利用できるようにするための「世界共通の基準・ルール」です。これにより、国際貿易の円滑化や互換性の向上、企業・消費者間で安心・安全な取引が実現できます。
5G通信、Wi-Fi、Bluetooth、QRコードなどが国際標準に該当します。
国際標準と特許
5G通信やWi-Fi、Bluetooth、QRコードなどの国際標準規格の中には、特定の企業が持つ特許技術が組み込まれることがあります。すなわち、国際標準規格の製品を作る際に、その規格を実施するために避けて通れない特許が生じることがあります。これを標準必須特許 (SEP : Standard Essential Patent) と呼びます。
今回の「標準戦略対応審査」は、標準化の進捗に合わせて、特許出願の審査着手時期を調整する制度です。これにより、標準化の議論を踏まえながら、出願時の記載の範囲内で、請求項を国際標準規格に対応しやすい形に整える余地を確保することができます。
もし、補正できる期間が、国際標準規格の審議期間に比べて短すぎると、標準化の進展を踏まえた請求項の調整が難しくなり、結果として、取得される特許権の範囲が国際標準規格に十分対応できないという問題が生じるおそれがあります。
審査期間長期化による特許期間の延長登録制度との関係
ここで気になるのが、特許権の存続期間の延長登録制度との関係です。
令和元年の特許法改正により、特許庁における審査が一定期間を超えて長引いた場合に、特許権の存続期間を補償する制度が設けられました(特許法67条2項)。これは、特許権の設定登録が遅れると、その分だけ権利行使できる実質的な期間が短くなってしまうため、一定の場合にその期間を補償する制度です。
そうすると、今回の「標準戦略対応審査」によって審査の着手を遅らせた場合、その分だけ特許期間も延長されるのではないか、という疑問が生じます。
しかし、この制度は出願人の希望により審査の着手時期を調整するものです。そのため、出願人が標準化戦略上の理由から審査時期を遅らせた期間についてまで、特許期間の延長が当然に認められるわけではありません。むしろ、特許期間の延長登録制度は、特許庁側の審査遅延などによって、一定の基準日を超えて設定登録が遅れた場合に、その不利益を補償する制度と理解するのが自然です。
この点からも、「標準戦略対応審査」は、単に特許期間を延ばすための制度ではなく、標準化と特許権取得のタイミングを調整するための制度と見るべきでしょう。
結び
これまでの特許制度は、一刻も早く権利化することが望ましいと考えられてきました。しかし、それがかえって柔軟な補正を制限することとなり、使い勝手が悪くなるという問題を生じていました。
今回の「標準戦略対応審査」制度は、あえて審査期間を長くする方向の制度であり、特許制度におけるパラダイムシフトといえる変化なのかもしれません。
特許制度は、単に早く権利を与えるだけでなく、技術の使われ方や市場形成のタイミングに合わせて、どのように権利化するかも問われる時代に入っています。
標準化、特許、そして市場形成。これらの関係は、これからの技術革新を考える上で、ますます重要になっていくのではないでしょうか。
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