はじめに
1688年の名誉革命の後、英国は王権の力が制限され、法の支配によって国家が運営されることになりました。特許制度も、法の支配の下、専売条例(1624年)に従って厳格に運用されることとなりました。
王の特権から法の支配へと移行する中で、特許制度の運用はどのように変わったのでしょうか。今回はその流れを見ていきます。
背景
17世紀末期の名誉革命以降、特許制度は「国王の権限を制限し、議会と法による支配を確立する」という憲政上の文脈で発展しました。この中で、専売条例が、特許制度の基本原則を定める枠組みとして、事実上の「特許制度の基本法」として機能するようになりました。
専売条例は、特許の対象を「新規の製造技術(new manufactures)」に限定していました。これにより、国内における「新しい製造技術」に対してのみ14年間の独占権が認められる仕組みが定着しました。
特許付与のプロセス
当時の特許の取得は、以下の手順で行われました。
① 請願(Petition)
発明者が国王またはその秘書官を通じて請願書を提出する。
② 法務官の審査
検事総長(Attorney General)または次長が、既存の特許と重複しないか調査する。
③ 国王の認可
国王の署名を得る。
④ 大法官庁(Chancery)
最終的に特許状(Letters Patent)が発行され、公認される。
以上のように、多くの手続が必要で、煩雑だけでなく高額な手数料も必要でした。手数料は、発明者の年収の2~3年分と言われ、現在の価値にすると、数百万円から一千万円規模に相当すると推計されます。
このため、当時の特許は裕福な発明家や資本家に限られていました。
なぜ特許を取るのが煩雑で高額なのか
これについては諸説ありますが、一説では、当時の官庁はそれぞれ独立して手数料を徴収する仕組みであり、複数の部署を経由するごとに費用が発生しました。こうした制度構造が手続きの煩雑化と高額化を招いていたと考えられています。
当時の特許制度の特徴
当時の特許制度は、所定の手続を経れば内部審査を行わずに特許が付与される、いわゆる無審査主義を採っていました。このため、特許状には発明者の名称や簡単な説明が記載されるのみで、詳細な技術内容は公開されませんでした。
「新規の製造技術」であるかどうかといった特許の実質的内容については、最終的に裁判所で判断されることとなりました。おおよそ、現在の日本の実用新案制度と似たようなシステムだったと言えます。
その後、特許の有効性を争う訴訟が相次ぎ、やがて、「新規の製造技術」であるかどうかの判断材料として、発明内容を公開させる明細書の提出が求められるようになりました。
独占と引き換えに何を社会に還元すべきか、という問題が次第に意識され始めます。
結び
法の支配の下で整えられた特許制度は、王の恣意からは解放されました。しかし、無審査主義と煩雑な手続という新たな問題を抱えていました。
現代の特許制度では、出願書類の形式や審査の手続が法律で詳細に定められていますが、この時代には、まだ制度として十分に整備されていたわけではありませんでした。
こうした状況の中で、18世紀初頭の裁判例は、発明内容を明確に公開する必要性を次第に強く打ち出すようになります。
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